感想交換会、実作分

はじめに
SF創作講座の感想交換会のための感想を書いている9月14日に「帰れない二人」というジャ・ジャンクーの映画を見たのですが。そもそも、日本において、ジャ・ジャンクーの評価を上げたのは、自分ではなかろうか。と自負しているくらい、たぶん3人くらいはわたしのおかげで、ジャ・ジャンクー好きが増えたという特大な観客増加の一助を担っているのですが。そんなわたしでも、今回の「帰れない二人」は、なんか全然のれなかった。どうしたんだ、わたしのジャ・ジャンクー。とオープニングからエンディングまで叫んでいました。自分にとっては、トンデモ要素が満載で、今のは、一体何だったのだろう。それはないだろう。と呟いてばかりでした。
しかし、ネットを見る限りは、普通に感動したやら、いつものジャ・ジャンクーだやら。みたいな、わたしにとっては不思議きわまりない評ばかり。
と、思うに、もしや、おかしいのは、ジャ・ジャンクーではなくて、自分の方なのでは。とも思わないではありません。ちなみに、そんなわたしの今年一番好きな映画は、ラース・フォン・トリアーの「ハウス・ジャック・ビルト」です。なので、ようやく、自分の感想の方が、大いなる勘違いかもしれないと思いつつ、読みながら、ぶつぶつ書き流してしまいました。これは、感想では無く、「おばさんがテレビをみながら突っ込んでいる」だけです。
全く参考にならない、自分の独り言です、すいません。
15日8時現在、実作だけ読み終わりました。こんな感じです。梗概は後日追加いたします。

感想交換会分
実作
9.プロフェッサー楓とアレクサンドロスの末裔(渡邉)
・(ナレーション)部分をどう読むのか。ドラマのナレーション?
論文なんかは後回しだ!は、楓の独り言?
あ、下のテレビドラマのナレーションか。でも、こういう入り方って、読み手は戸惑うのでは?
ここの全体が、あるときは第三者の「楓は」と書かれている一方で、頻繁に主観の、わたしがどうであった。「わたしは」という主語は使っていないけど、一人称描写としての感じ方の描写になっている。
わざと?あれ?こういう書き方でいいのか?
中国好きは分かるけど、長城で車って通じるのだろうか。長城BMWって言い方するのだろうか。
「口が軽い奴がいたものだね。それで、あんたは?」
「長城を見張っている子が親切だったの。九条楓、歴史学者よ」
あ、こういう格好いい名乗り方の会話、自分には書けない。
遺伝子検査とかしてないけど、誰も反対してないんだ。きっと正しいんだろ」
「話がしたい」
「お姉さん、ストレートだね」
とかとかスマートな会話。
会議中の楓の発言に「」をつけていない箇所は、意図的なのだろうか。
マケドニア閉鎖の意思決定早いな。
楓が真の歴史の話をしている箇所で、部分的には楓の説明調なっているが、次第に地の文としての説明調(楓の説明ではない)になっているような。
二人の会話の際も「」を使ったり使わなかったりするのは意図的なのですね。
梗概を読んで意味が分からないけど、面白そうと思った「体内のウィルスすら抑え込もうとする。実体化したフェイクAIが口から吐き出される。使い魔と共にこれを退治。」
という部分が実作では違う方法になっていた?のが勝手に残念
何か梗概と実作の印象の違いが大きく感じました。
実作を読み終わった後は、2、3,4のヴェレスでの活動が中心となっていて、それは上手に展開されていると思ったのですが。何か梗概を読んだときの、魅力的な会話に挟まれるフェイクニュースやとても魅力的に感じた30代子持ち歴史学者の活躍、という箇所が少なくなっていた。それは、50枚の短編なのに、彼への真の歴史説明の描写が多くを占めてしまったからなのか。ただ、わたしが長く感じた箇所は、人によっては逆に魅力的に思うところなのかもしれません。
会話も魅力的で、地の文も時に歴史調で、ときにハードボイルド風味で、時にユーモアも混ぜてと、羨ましい。


10女の子から空が降ってくる(稲田)
出だしの、女の子が地面の匂いを嗅ぐ描写から入るのが上手だなと思ったら、「まるで鼻の奥に小さな島ができたような心地がした」なんですか、これ。こんな可愛い描写は見たことがない。そして、なぜ地上の匂いを嗅ぐのが好きか説明する。上手だし。
たぶん梗概を読むだけだと、読む人によって、主人公の形や動きがぞれぞれ読み手の数だけあったろうけど、この実作をよめば、稲田さんの書いたとおりのアリリとスクズズを思い浮かべられる。
ツイッターや講師の突っ込みの返事ではないでしょうが、“硬い鱗状の皮膚”とか〈食の海〉と〈肥の海〉とか、異世界にきちんと補足説明が入る。
〈足もとの人々〉など名称が上手で心地よい。
アリリと好奇心旺盛な〈足もとの人々〉二十名とで調査団は構成された。の調査団の説明が楽しくなる。
だけど、最後の説明がよくわからなかった。
前半で説明していたくしゃみの説明が最後でも効いてくるのだけど、鼻水とつばだった。と たぶんアリバドプの石細工を造ったときに出たゴミ。という落ち?が、わからなかった。
『でも……、私にも、世話係の他にやりたいことがあるの』
 そのようなスクズズの告白を、アリリはマプコーヤたちに教えなかった。
も、わからなかった。
「そういえば、僕、地面の上に立ち上がって、思いっきり伸びをしてみたいな」
と、最後の一行:いや、その拳はもしかしたらマプコーヤのものかもしれないし、ひょっとするとスクズズのものかもしれない。
も、物語の閉め?として、よくわからなかった。
読み取れていないのかもしれませんが、調査団の調査までは、その可愛く美しい描写が、とても面白かったのですが。このラストの説明部分がよく読み取れませんでした。
ただ、「柱娘が天をささえて、空のかけらがおちてくる」というイメージが素晴らしく、その描写も成功していると思いました。


11.ペテン師モランと兎の星(藍銅)
ですます調の文体なのだけど、住んでいるのです。あ、ここはですます調というより、「のです調」か。
普通は「住んでいます。or住んでいました。」にしない?「住んでいるのです。」って断定されると、面白くなるのね。
「ぴょんたかぴょんたか」って言葉も使ったことも、読んだこともなかった気がする。
読み進めると、梗概では想像できなかった、お茶目文体であることに気づく。いや、かなり飛ばしている絵本文体か。
しかし、蔦が二人を覆って、妊娠とは。ああ、絵本だからね。
「それで、どうするのです」
 モランはゆっくりと顔を下ろしました。ルゼの顔をしばらくじっと見ます。兎が一羽、ルゼの足元を通り過ぎた頃、モランは言いました。
「戦争を終わらせる」
ここの質問と全く違う答えへの展開は、とても上手いです。
◎いえ、踊りたくなければ踊らなくてもいいのですが、楽園にいて踊りたくない気分でいることはとても難しいのです。
とか、翻訳文体絵本ですよね。
この文体で、物語の可愛さ倍増しにはなったと思います。ただ、逆に、可愛すぎて、戦争をやめるとか、止めに行くとかに全く緊張感が欠けてしまったのでは?
何かを見落としているのかもしれませんが、はいはい、そしてそして。と物語は進んで「戦争」が、可愛いおとぎ話のひとつになってしまったように思えました。
あれ。もしかしたら、それも藍銅さんの思惑なのでしょうか。しかし、さらに、わたしには、あのルゼが殺されたのです。という描写になっても、あまり悲劇として響いてこなかったのです。まあそれも、読み手の勝手でしょう。(こういう文体なのです)
たとえば、自分のベストオブベストは「幸福の王子」なのですが、まさしく「なのです」文体を使っているけど。使っているからこそ、残酷さや悲しさを際立たせることに成功していますよね。
「なんということでしょうか。」は、珍しくない表現かもしれませんが、この使い方、とても気に入りました。
次に使おう。


12.ディスオリエント・エクスプレス(中野)
この列車に乗り込み、時刻表に無い列車、奇妙な一人だけのお客との対話は、夢のような世界として在るのかというと、そうでもなく現実として二人は捉えているかのような描写が、SFとしてもファンタジーとしても奇妙で。まるで「奇妙な世界」の話として読むのか。
と思うのだけど、この主人公らが接する現実の歴史問題が重く、それでいて、この奇妙な夢のような世界を背景としているのが、実作を読むと、とても違和感を感じました。
梗概で好きだったイメージが、何度も夜中の駅に入ってくる列車。の部分なのですが、これが実作を読むと、この二人は、不思議な電車での遭遇の一方で、同じ境界上で平然と資料集めをするのが、納得できませんでした。
優秀な二人だったら、あの逆向きの列車が来る前に、今までの説明からおよそ何の説明であったのか想定できたのでは。とか、それでいて逆向きに来た「不思議な列車」のはずが、そこで下ろされて駅が存在していてるのが、現実とファンタジー的世界の境界線がないかのように流れていったり、牛舎みたいな建物は何だったのだろう。っていう疑問も、気づかなさすぎだろう。と突っこみたくなりました。
◎「彼のシルエットからは細く長い影が伸び、影に影が貼りついているように見えた。」
ワルシャワ・ゲットー蜂起については、きちんと知らなかったので、wikiも読み、勉強になりました。
と、読み進めているうちに、「あ、野良のタイムマシン」というガジェットが出てきたのですね。
これで、前半の二人一緒の行動が説明ついているのか、わからなくなってしまいました。
まさしく、中野さんの文「強引だけどなんとなく納得できる気がします」で、あー。となりました。
そして、最後の一行は、本当に力のある言葉だと思うのですが、果たしてこの実作で効いているのか。わからなくなりました。
この物語は、全く現実の歴史事象なしで、ファンタジーに寄せて書くとそれなりに面白い物語にもなりそうな気がするのですが、中野さんが書きたいのは、本当はそんなとことでもないように思うので、中野さんの書きたいことだけを突き詰めれば、また違う路線の素敵な話になりそうな気がします。


13.生きている方が先(安斉)
梗概を読んだときに、これはSF小説の梗概と言うより、エッセイの要約みたい。と感じた印象が、実作でも、やはりエッセイみたくて、SF度も感じなくて、ここでのヒーローって、何なのだろう。とも思いました。でも意図的かどうかはわかりませんが、エッセイのような文体で、エッセイのような主観の物語は全然ありだと思っています。実際、今作でも「柏手を打った瞬間、タバコのヤニでくすんでいた部屋が一気に明るくなって、空気もきれいになったのがわかった。」は、カタルシスみたいなものを感じられます。
あえて、この実作中のヒーロー的な者のは、「生きているわたしたち」なのでしょうが、そこに拘る必要もなかったのかもしれません。全くSF小説として、読まずに、まとまった「生きている人間のほうが先なんだから」についての文章として、まとまっていると思いました。

 

14.オール・ワールド・イズ・ア・ヒーロー(黒田)
いままで、梗概と実作の感じが全然違うじゃ無いですか。と勝手に感じて、つっかえつっかえ、読んでいたところが、黒田さんのオール・ワールド・イズ・ア・ヒーローは、すんなり一気に読めました。ただ、それがいいのか悪いのかは、わかりません。そして、一番梗概と実作の違うところは、ラストの記述部分。「テビスは視聴者のすべてがAIに代わってしまったことを悟る。」ここが、梗概を読んでいる人には、頭に入っていても、梗概をよんでいない人にとって、実作の、「残響音だけが、街中で響いている気がした。フレーム値は小刻みに揺れていた。」は、かならずしも、梗概の結末と捉えられないと思います。
この梗概の書き方をしなかったのは、ベタな落ちと思ったのか。それより、もっと広い解釈の余地を与えたかったのかもしれませんが、であれば、また違った広がりのある記述にしないと、なにか、もやもや感がある終わり方に感じてしまうように思いました。
それと、梗概で魅力的に感じた「ストーリーが終わればテピスは更新され、新しいストーリーの主人公となる。しかし、ストーリーは常に人間の視聴者の人気度(フレーム)によって監視され、フレームが下がれば次のストーリーでは脇役AIになり、さらにフレームが下がれば、テピス自身が消滅し他のAIに取って代わられる。」という構造であって、実作では、ここら辺のドラマパートが具体的に描かれるのかと思ったのですが、それは、ほとんど描写されなかったのは、枚数の問題なのかもしれませんが、実作が、梗概に少し付け足した全体感。みたいな印象になって、一気に読めてしまったのかもしれません。